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2020.4.15

マセラティ、スターリング・モス氏を追悼

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マセラティは4月12日、スターリング・モス卿(享年90歳)の死去を悼む声明を発表しました。

スターリング・モス卿とマセラティとの結びつきは非常に強いものでした。モス はマセラティのクルマをどう駆るべきかということについて誰よりも適切な解釈をすることが できた偉大なチャンピオンの一人でした。彼は速いことはもちろん、エネルギーに満ちた度量 の広いドライバーで、明るくダイナミックな性格の持ち主でした。

モスのモデナへの最後の訪問のひとつは、マセラティの 100 周年を祝うイベントでした。ミュ ゼオ・エンツォ・フェラーリに展示された、マセラティの名車の数々を目にしたモスは、一つ 一つのモデルを事細かに説明していました。「250F は高速マシンとしてすべての動作においてドライバーを満足させたモデルだった。300S は素晴らしいバランスと並はずれた運転のしやす さを備えた一台。そしてこのふたつの特長を併せ持ったのが、Tipo 61 バードケージだ」

事実、250F は彼のお気に入りのシングルシーターのモデルでした。1956 年 5 月 13 日にモナコ グランプリで彼はこのモデルとともに彼の生涯でもっとも美しい勝利のひとつを挙げていま す。シャーシナンバー2522 のマセラティで、彼はレースを終始リードし続けたのです。同年モ ンツァで行われたイタリアグランプリにおいては、コリンズがファンジオのタイトルのために 託したランチア フェラーリを破ってモスの 250F が勝利しています。こうした理由からモスは 250F を非常に誇りに思っており、プライベートコレクションに長らく保管されていました。

スターリング・モス卿は 1929 年 9 月 17 日にイギリス ロンドンに生まれ、同地で生涯を過ごし ました。彼の父親 アルフレッド E・モスは 1924 年にインディアナポリス 500 を 16 位で終了、 妹のパットもいくつかのラリーに参戦をしていました。

モス家にとってレーシング活動というのは定めのようなものだったのかもしれません。F1 にお いては 1951 年から 1961 年にかけて 66 のグランプリに参戦、うち 16 のレースで勝利をしてい ます。しかし彼はその強さをもってしても 1955 年、1956 年、1957 年、1958 年と 4 年連続で 2 位に甘んじています。モスが無冠の帝王と呼ばれるゆえんです。そして彼はまたサーキットだ けではなく公道レースにおいても伝説を残しています。1955 年のミッレミリアでは 10 時間 7 分 48 秒で制覇、セブリング 12 時間、ツーリスト・トロフィー、タルガフローリオなど数々の レースを制しています。

50 年代から 60 年代においては、イギリスの警官がスピード違反のクルマを止めた際に「スタ ーリングモスにでもなったつもりか」というのが常套句になったり、映画『007 カジノロワイ ヤル』にもゲスト出演をするなど、国民的な人気を得た人物でした。
止まることのなかったユニークなキャラクターで、数年前まではメルボルンで彼を見かけたか と思えば 24 時間後にはニューヨークのテレビ番組に出演などということもありました。 ハンドルを握る限り彼は疲れ知らずだったのです。 マセラティはスターリング・モスがブランドに与えてくれたものに感謝をし、今後も彼を忘れ ることはありません。

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